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東京高等裁判所 平成9年(ネ)162号 判決

五七七七号事件控訴人・一六二号事件被控訴人(被告)

(以下「第一審被告甲野」という。)

甲野太郎

五七七七号事件控訴人・一六二号事件被控訴人(被告)

(以下「第一審被告会社」という。)

立野電業有限会社

右代表者代表取締役

立野誠志

右両名訴訟代理人弁護士

河内謙策

坂口禎彦

五七七七号事件被控訴人・一六二号事件控訴人(原告)

(以下「第一審原告」という。)

乙川一郎

右訴訟代理人弁護士

安田昌資

主文

一  第一審原告の控訴及び当審における請求の拡張に基づき、原判決を次のとおり変更する。

1  第一審被告らは、第一審原告に対し、各自、金五四九万一五三四円及びこれに対する平成四年一二月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  第一審原告のその余の請求(当審における拡張部分を含め)を棄却する。

二  第一審被告らの控訴をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを一〇分し、その九を第一審原告の、その余を第一審被告らの各負担とする。

四  この判決は、主文第一項1につき仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  五七七七号事件控訴の趣旨

1  原判決中第一審被告ら敗訴部分を取り消す。

2  第一審原告の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも第一審原告の負担とする。

二  五七七七号事件控訴の趣旨に対する答弁

1  本件控訴をいずれも棄却する。

2  控訴費用は第一審被告らの負担とする。

三  一六二号事件控訴の趣旨等

1  原判決を次のとおり変更する。

2  第一審被告らは、第一審原告に対し、各自金一九六三万一九九二円及びこれに対する平成四年一二月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  当審における請求の拡張

第一審被告らは、第一審原告に対し、各自金三七〇一万六四七九円及びこれに対する平成四年一二月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は、第一、二審とも第一審被告らの負担とする。

四  一六二号事件控訴の趣旨等に対する答弁

1  本件控訴をいずれも棄却する。

2  第一審原告の当審における請求を棄却する。

3  当審における訴訟費用は第一審原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  事件の発生

第一審原告は、訴外アイ・エヌ・エス株式会社(以下「アイエヌエス」という。)に勤務していたところ、平成四年一二月一四日、東京都目黒区目黒〈番地略〉所在の目黒清掃工場還元施設建築現場(以下、この工事を「本件建築工事」という。)地下二階内において、アイエヌエスが請け負っていた機械制御設備配置図面の作成や設置工事業者への指示監督に従事中、同日午後二時ころ、空調機械の設置工事に従事していた第一審被告会社の従業員である第一審被告甲野に作業上の指示をした。

ところが、第一審被告甲野がこれを無視する態度をとり、その場から去ろうとしたので、第一審原告が第一審被告甲野を追いかけていき、注意しようとして呼び止めたところ、第一審被告甲野は、急に第一審原告に襲いかかり、コンクリートの地面に投げつけたため、第一審原告は、頭から落下して、頭蓋骨線状骨折、脳挫傷、硬膜外血腫の重傷を負った(以下、この事件を「本件傷害事件」という。)。

2  第一審被告らの責任

第一審被告甲野は、民法七〇九条の不法行為責任に基づき、第一審被告会社は、自己の従業員がその業務中に行った暴行により加えた損害について、民法七一五条の使用者責任に基づき、各自、第一審原告に対し、次の3の損害を賠償する義務がある。

3  第一審原告の損害

(一) 治療費 二三万七九三五円

第一審原告は、関東逓信病院において、平成四年一二月一四日から平成五年一月一一日まで入院治療を、同月一二日から平成六年一月一七日まで通院治療を受け、その間に、治療費として二三万七九三五円を自己負担した。

(二) 入院雑費 三万四八〇〇円

第一審原告は、右入院に伴う諸雑費として、一日当たり平均一二〇〇円、合計三万四八〇〇円(入院期間二九日)の支出を要した。

(三) 通院交通費 四万三五二〇円

第一審原告の通院交通費は、次のとおりである。

(1) 自宅と福生駅間の往復タクシー代金 一二〇〇円

(2) 福生駅と五反田駅間の往復電車運賃 一三六〇円

(3) 合計 四万三五二〇円

一日分二五六〇円×一七回(実通院日数一七日)

(四) 休業損害 三〇九万〇二三六円

第一審原告は、第一審被告により傷害を負わされて入院した平成四年一二月一四日から、アイエヌエスを休職し、平成五年一月一二日に退院した後も、医師の指示で自宅静養を続けたが、体調が思わしくなく、同年三月二〇日に同社を退職した。

その間、第一審原告は、失業保険金として支給された合計一〇五万六二七〇円を生活費に充てていたところ、ほかに収入がないため、職を探すことにし、ようやく同年六月から、地方公共団体の下水処理場の保守監理等を営む訴外高杉商事株式会社(以下「高杉商事」という。)に就職したが、医者から、脳挫傷があり、抗けいれん剤を飲んでいる間は、高い所に登ったりするような平衡感覚を必要とする仕事や自動車の運転も控えたり、その他無理な仕事はしないように注意されていることもあって、十分な働きができないため、同社を同年八月一杯で退職せざるを得なくなった。なお、第一審原告は、この間、高杉商事から六三万〇三一五円の収入を得た。

その後、第一審原告は、体調が優れないまま経過したが、平成六年一月一七日、症状固定と診断されるに至った。

そこで、第一審原告が本件傷害事件による受傷により休業・退職しなければアイエヌエスから得たであろう所得、すなわち第一審原告の同社における本件傷害事件発生時の平成四年度の年収四五六万四二四〇円を基に、給料をもらえなくなった平成五年一月一日から症状固定した平成六年一月一七日までの推定所得四七七万六八二一円(四五六万四二四〇円+四五六万四二四〇円÷三六五×一七=三一四七七万六八二一円)から、その間に得た前記所得合計一六八万六五八五円を控除すると、第一審原告の休業損害は三〇九万〇二三六円となる。

(五) 逸失利益 四〇九〇万一九八〇円

第一審原告には、本件傷害事件による受傷の後遺障害として、頭部外傷、陳旧性脳挫傷が存在し、てんかん発症予防のため、抗けいれん剤の服用の継続を必要とする症状が平成六年一月一七日に固定したが、その後も右後遺障害は改善することなく継続し、現在の症状は、MRI検査では、左側頭葉の底部及び先端部にFLAIR法による撮像で高信号領域を認め、左側頭葉前部が萎縮し、左側脳室下角の拡大が認められる脳挫傷後の変化が存在し、その他、異常脳波、意欲低下、感情鈍麻の障害が残存している。

そして、右後遺障害は、自賠責保険における後遺障害等級(労働者災害補償保険に同じ)第七級に該当すると考えられる。

そこで、第一審原告の右後遺障害による逸失利益は、第一審原告の本件傷害事件発生時の年収が四五六万四二四〇円であったところ、右後遺障害第七級の労働能力喪失率は五六パーセントと推定されるから、四五六万四二四〇円に喪失率五六パーセントを掛けて得た二五五万五九七四円に、症状固定時の三四歳から稼働可能な六七歳までの三三年のライプニッツ係数16.0025を掛けて得た四〇九〇万一九七三円となる。

ちなみに、第一審原告は、現在、定職に就けず、父親の下で扶養を受けている。

(六) 慰謝料 一二〇〇万円

(1) 入通院慰謝料 二〇〇万円

(2) 後遺障害慰謝料 一〇〇〇万円

第一審原告は、本件傷害事件によって生じた第七級相当の重い後遺障害のため、今もって通院を余儀なくさせられており、今後も通院を必要とするばかりか、症状がさらに増悪する可能性もあり、この精神的苦痛に対する慰謝料としては一〇〇〇万円が相当である。

(七) 弁護士費用 三四万円

第一審原告は、本件訴訟を原審裁判所に提起するに当たり、財団法人法律扶助協会(以下「法律扶助協会」という。)に、第一審原告代理人に対する報酬の立替えを依頼し、その結果、八万円の返還債務を負担し、また、第一審訴訟手続の終了及び五七七七号事件控訴に伴う第一審原告代理人に対する報酬についても、法律扶助協会に立替えを依頼し、その結果、二六万円の返還債務を負担している。

4  まとめ

よって、第一審原告は、第一審被告らに対し、不法行為責任及び使用者責任に基づき、各自、五六六四万八四七一円及びこれに対する本件傷害事件の日である平成四年一二月一四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める(このうち、三七〇一万六四七九円及びこれに対する前同遅延損害金の請求が当審において拡張した部分である。)。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1のうち、第一審原告がアイエヌエスに勤務していたこと、平成四年一二月一四日、本件建築工事現場で、第一審被告会社の従業員である第一審被告甲野が空調機械の設置工事に従事していたことは認めるが、その余の事実は否認する。

2  同2の主張は争う。

3  同3(一)のうち、第一審原告が関東逓信病院に入院したことは認めるが、その余の事実は否認する。

同(二)ないし(四)の事実は否認する。

同(五)のうち、第一審原告が頭部外傷を受け、陳旧性脳挫傷が存在すること及びてんかん発症予防のため抗けいれん剤を服用していることは認めるが、その余の事実は否認する。

同(六)の事実は否認する。

同(七)の事実は知らない。

4  同4の主張は争う。

三  第一審被告らの主張

1  本件傷害事件の発生に至るまでの経過

(一) 本件傷害事件の発端は、第一審原告が、当日、本件建築工事を請け負っていた共同企業体の所長の村井修二(以下「村井所長」という。)から、「空調・給排水の自動制御装置の試運転のチェックをきちんとしておくように」と注意されるとともに、本件建築工事の一次下請会社である訴外山武計装株式会社(以下「山武計装」という。)の石黒課長からも、「現場監督をきちんとしていない」と厳しく注意されたことから、そのうっ憤晴らしに、第一審被告甲野にしつように絡んで暴行を加えたことにある。

(二) 第一審原告は、二次下請会社の現場担当者であったにもかかわらず、打合せに来ると言って来なかったり、来ても仕事の段取りを知らなかったり、自分が嫌になると勝手に帰ってしまったりと、日頃から勤務態度がすこぶる悪かった。

実際、第一審原告は、自分がすべき仕事さえ満足に理解しておらず、本件建築工事現場においても、第一審被告甲野が夜遅くまで働いていたので、何とか当初の予定どおりに進めることができていたのである。

このことは、本件建築工事現場で働いていた者なら誰でも知っており、真面目に仕事をしない第一審原告の下で苦労していた第一審被告甲野に対しては皆同情していた。

(三) 本件傷害事件発生当日も、第一審被告甲野は、村井所長から直接指示されていた空調設備の修理に必要な材料を揃えるために、午前中遅れて本件建築工事現場に行くことになった。

第一審被告甲野が現場に着いて仕事にかかろうとしたところ、前記のとおり、石黒課長から厳しく注意を受けた第一審原告が、第一審被告甲野に対し、「今ごろのこのこ来やがって」と急に文句をつけてきた。第一審被告甲野は、「材料を用意していたんだ。君はここ何日か仕事に来ていないから、分からないじゃないか。」と言ったところ、事実を指摘された第一審原告は、気にくわなかったようで、なおも第一審被告甲野に絡んできた。

第一審被告甲野は、仕事が最終段階で忙しかったことから、第一審原告を相手にしないで、現場事務所に戻り仕事を続けようとしたところ、第一審原告は、後を追いかけるように同事務所内に入り、「今の態度は何だ。お前、自分の立場を分かっているのか。」などと言い、果ては「お前を首にしてもいいんだぞ。」というような脅迫めいた言葉を第一審被告甲野に投げ付けた。

第一審被告甲野が、第一審原告の余りにひどい言葉に抗議しようと第一審原告の方を向いたところ、突然、第一審原告が第一審被告甲野に対して頭突きをし、殴りかかってきたことから、本件傷害事件が発生した。

2  正当防衛

(一) 前述のように、本件建築工事現場事務所において、第一審原告が第一審被告甲野に対し、突然、頭突きをし、殴りかかり、さらには蹴り上げるなどしつように暴行を加えたが、第一審被告甲野は、現場でけんかざたになっては仕事に支障を来すし、第一審原告が二次下請会社の従業員であったことから、懸命に右暴行に耐えていた。

(二) ところが、第一審原告が第一審被告甲野の髪の毛をつかもうとしたので、逃れるために頭を下げたところ、第一審原告は、第一審被告甲野の頭を腕で抱えて強く締め付け(いわゆるヘッドロック)、突然、むき出しのコンクリートの壁に向けて第一審被告甲野の頭を打ちつけようとした(第一審被告甲野の頭と右コンクリート壁は約一メートルの至近距離にあった。)。

そこで、第一審被告甲野は、右コンクリート壁に頭を打ちつけられる寸前、とっさに自分の身を守るため、第一審原告の体を後ろに投げ出すような形で、第一審原告と共に倒れ込んだ。

この時、第一審原告は、第一審被告甲野の頭を強く締め付けていたため、第一審被告甲野としては、第一審原告の腕を振りほどいて逃れることなど到底不可能な状況にあり、また、それがために、第一審原告も第一審被告甲野と共に後ろに倒れることになったのである。

もし、第一審原告の右行為に対し、第一審被告甲野が何もしないでいれば、第一審被告甲野の頭はむき出しのコンクリートの壁に打ちつけられ、大けがをしていたであろうことは容易に推測できる。

(三) それ故、第一審被告甲野の行動は、自身の生命・身体を守るためやむを得ずとった緊急の措置であり、民法七二〇条一項の正当防衛が成立し、何ら法的責任を生じるものではない。

3  過剰防衛

仮に、第一審被告甲野の前記行為が正当防衛に当たらないとしても、本件傷害事件は、第一審原告のしつような暴行に対し、第一審被告甲野が自身の身を守るために行った防衛行為の結果発生したものであり、防衛の程度を超えた行為として過剰防衛が成立するものである。

したがって、本件傷害事件の発生に関する過失割合は、第一審原告の九割に対し、第一審被告甲野の一割と考えるのが相当である。

4  第一審原告の損害について

(一) 休業損害について

第一審原告が高杉商事で高所作業に従事したり、自動車の運転業務に就いた事実はなく、第一審原告は、実際には、少なくとも高杉商事に就職した時点で回復していたにもかかわらず、生来の不真面目な態度が災いして退職を余儀なくされ、その後は、本件傷害事件にかこつけて就職せずに暮らしているというのが実態である。

(二) 後遺障害について

極めて少ない客観的資料に基づいても、第一審原告にはもはや後遺障害は残っておらず、仮に後遺障害が存在するとしても、ほとんど正常とも言えるほど、極めて軽度のものにすぎない。

四  第一審原告の反論

本件傷害事件の際、第一審被告甲野は、コンクリートの壁に向かおうとする第一審原告の動きをいったんは完全に止めたにもかかわらず、それまでのうっ憤を晴らすべく、第一審原告の体を持ち上げて、そのまま自分の後方へ首を下にして投げ落としたものであり、危険極まりない技(いわゆるバックドロップ)を掛けたものといわざるを得ず、正当防衛及び過剰防衛は成立しない。

第三  証拠

本件訴訟記録中の証拠関係目録の記載を引用する。

理由

一  本件傷害事件の発生に至るまでの経過、本件傷害事件の態様

請求原因1のうち、第一審原告がアイエヌエスに勤務していたこと、平成四年一二月一四日、本件建築工事現場で、第一審被告会社の従業員である第一審被告甲野が空調機械の設置工事に従事していたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実、証拠(認定事実の末尾に掲げる。以下同じ)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  本件建築工事は、目黒清掃工場の還元施設の建設工事であり、右清掃工場の隣に、右清掃工場からの余熱を空調や浴場のエネルギーとして利用し、主に地域に住む高齢者のための福利厚生施設を建設していたものであり、このうち、空調・給排水設備等の設置工事を、東洋熱工業株式会社と武蔵野工業株式会社との共同企業体が請け負い、山武計装(一次下請)、アイエヌエス(二次下請)、第一審被告会社(三次下請)に順次下請をさせていたものである(乙一、二、四、原審証人中村太一〔以下「証人中村」という。〕)。

そして、第一審原告は、二次下請のアイエヌエスの現場代理人(現場責任者)として、施行のための打合せ、施工図の作成、工程管理、労務管理、品質管理、工事の予算管理等の業務に従事しており、一方、第一審被告甲野は、三次下請の第一審被告会社の従業員として、空調・給排水設備工事に従事していた(乙六、原審における第一審被告甲野本人〔以下「被告甲野本人」という。〕)。

右空調・給排水設備工事の現場の最高責任者は、村井所長であり、仕事の手順は、本来、村井所長が一次下請の山武計装の石黒課長に指示を出し、その指示が、石黒課長から二次下請のアイエヌエスの現場代理人である第一審原告へ、第一審原告から三次下請の第一審被告会社の現場担当者である第一審被告甲野へと伝達されることになっていた(乙一、二、六)。

ところが、第一審原告は、現場で働く者のまとめ役であったにもかかわらず、朝礼には出席せず、遅刻が多くて仕事の手順についての打合せにもろくに参加せず、仕事に関する初歩的なことさえ理解していなかったため、現場ではいわゆるお荷物的存在であり、仕事上の指示の伝達や打合せは、第一審原告を省略して、直接、第一審被告甲野との間で行われていた(乙二、五ないし七)。

村井所長は、第一審原告に対し、このような勤務態度を改めるよう何度も注意したが、第一審原告が従わなかったため、山武計装の石黒課長を通じて、アイエヌエスに対し、現場代理人の更迭を繰り返し要求したが、受け入れられなかった(乙二、六)。

2  本件傷害事件発生当日(平成四年一二月一四日)、前記空調・給排水設備工事は最終段階に入っており、第一審原告は、村井所長から、右設備の自動制御装置の試運転のチェックをきちんとしておくように、朝から厳しく注意を受けた(乙一)。

一方、第一審被告甲野は、同日午前中、村井所長の指示で外へ材料調達に出掛けており、昼ころ、本件建築工事現場に戻ってきた(被告甲野本人)。

そして、第一審被告甲野が現場の地下二階空調機械室に入るや、第一審原告は、第一審被告甲野に対し、「何だ、今ごろのこのこやって来やがって。」と文句をつけ、これを無視して地下二階事務所に移動した第一審被告甲野の後を追いかけてきた(乙四、被告甲野本人)。

同事務所において、第一審原告は、第一審被告甲野に対し、「何だ、お前、今の態度は。早くやらなきゃだめだろう。」となじったところ、第一審被告甲野は、「お前は全然仕事に来てないのに、来ていきなり文句を言うなよ。仕事は打合せをしてちゃんとやっているから。」と言って、相手にしなかった(乙一、証人中村、被告甲野本人)。

ところが、第一審原告は、なおも、第一審被告甲野に対し、「俺にそんな口の利き方をしていいのか。お前は下請だろう。俺が首にしてもいいんだぞ。」と絡んだため、第一審被告甲野が「何だよ、この野郎。」と言い返すと、第一審原告は、「ふざけんじゃないぞ。やるのか、お前。ぶっ飛ばしてやろうか。」と言ったので、第一審被告甲野は、「やれるものならやってみろ。」と言って、その顔を第一審原告の面前数センチメートルの所まで近づけた(乙一、証人中村、被告甲野本人)。

すると、第一審原告は、第一審被告甲野に対し、いきなり頭突きをし、うずくまった第一審被告甲野を蹴り上げ、手拳で殴打するなどした上、中腰の第一審被告甲野の首を右腕で締め付けて(いわゆるヘッドロック)、その頭部を約一メートル先のむき出しのコンクリート柱にぶつけようとした(乙一、四、証人中村、被告甲野本人)。

3  第一審被告甲野は、第一審原告の腰に手を回し、足を踏ん張って、第一審原告の動きを止めたが、その直後、第一審原告を斜め後ろに投げるように一緒に倒れ込んだ。その結果、第一審原告は、むき出しのコンクリート床に頭部を強く打ちつけられた(乙一、四、五、証人中村、被告甲野本人)。

4  本件傷害事件発生当時の第一審原告の身長は約164.5センチメートル、体重は約五五キログラムであり、他方、第一審被告甲野の身長は約一七一センチメートル、体重は約七八キログラムであった(原審における第一審原告本人〔以下「原審原告本人」という。〕、弁論の全趣旨)。

また、それまでに、第一審原告は武術等の経験がなかったのに対し、第一審被告甲野は、昭和六三年ころ、合気道を約八か月間経験していた(証人中村、原審原告本人、被告甲野本人)。

以上の事実を認めることができ、原審原告本人及び被告甲野本人の各供述中右認定に反する部分は、前掲採用証拠に照らし信用することはできず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

二  正当防衛、過剰防衛の成否

前記一の認定事実によれば、本件傷害事件の発生に至った原因は、第一審原告の第一審被告甲野に対するしつようで、かつ、一方的な暴行にあったことは明らかであるが、一方、第一審被告甲野も、「やれるものならやってみろ。」と言って、その顔を第一審原告の面前数センチメートルの所まで近づけており、第一審原告のある程度の暴行を覚悟していたにとどまらず、第一審原告の暴行を挑発さえしているものである。

しかし、第一審被告甲野が、第一審原告の腰に手を回し、足を踏ん張って、第一審原告の動きを止めたが、その直後、第一審原告を斜め後ろに投げるように一緒に倒れ込んだのは、第一審原告から首を強く締め付けられ、頭部を約一メートル先のむき出しのコンクリート柱にぶつけられそうになったためであって、第一審原告のこのような異常な暴行まで第一審被告甲野が予期していたとは到底考えられないから、第一審被告甲野が第一審原告の腰に手を回し斜め後ろに投げるように倒れ込んだのは、自己の生命・身体を防衛するため、やむを得ず反射的にとった行動というべきであり、第一審被告甲野と第一審原告との体格の相違や第一審被告甲野の合気道の経験、第一審被告甲野がいったんは第一審原告の動きを止めたことを考慮しても、第一審被告甲野の右行為をもって、第一審被告甲野がこの機会を利用して反撃に転じ、第一審原告にプロレスの技(いわゆるバックドロップ)を掛けたものとは認めることができない(第一審被告甲野にそこまで余裕があったことを認めるに足りる証拠はない。)。

そして、第一審被告甲野は、右説示のとおり、いったんは第一審原告の動きを止めることができたのであるから、自己の生命・身体を防衛するためには、第一審原告を斜め後ろに投げるようにするまでの必要はなかったものというべきであり、この行為の結果、第一審原告の頭部をコンクリート床に強打させ、第一審原告に対し、後記のとおり重大な傷害及び後遺障害を負わせたのであるから、第一審被告甲野の右行為は、防衛の程度を超えた過剰防衛行為であるといわなければならない。

三  第一審被告らの責任

そうとすれば、第一審被告らの正当防衛の主張は理由がなく、第一審被告甲野は、民法七〇九条の不法行為に基づき、第一審被告会社は、民法七一五条に基づき、各自、第一審原告が被った損害を賠償する責任がある。

しかし、第一審被告らの過剰防衛の主張は理由があるから、これを参酌するほか、以上認定説示したところを総合考慮すると、本件傷害事件の発生に関する第一審原告の過失割合は八五パーセント、第一審被告甲野の過失割合は一五パーセントとして損害賠償の額を定めるのが相当である。

四  第一審原告の損害

請求原因3(一)のうち、第一審原告が関東逓信病院に入院したこと、同(五)のうち、第一審原告が頭部外傷を受け、陳旧性脳挫傷が存在すること及びてんかん発症予防のため抗けいれん剤を服用していることは当事者間に争いがなく、右争いのない事実、証拠及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  治療費 二三万七九三五円

第一審原告は、本件傷害事件により頭部外傷、脳挫傷性出血の傷害を受け、関東逓信病院(東京都品川区東五反田五―九―二二所在)において、平成四年一二月一四日から平成五年一月一一日まで入院治療を、同月一二日から平成六年一月一七日まで通院治療を受け、その間に、治療費として二三万七九三五円を自己負担した(甲一、三ないし二〇、二四)。

2  入院雑費 三万四八〇〇円

第一審原告は、右入院に伴う諸雑費として、一日当たり平均一二〇〇円、合計三万四八〇〇円(入院期間二九日)の支出を要した(弁論の全趣旨)。

3  通院交通費 四万三五二〇円

第一審原告の通院交通費は、次のとおりである(弁論の全趣旨)。

(一)  自宅と福生駅間の往復タクシー代金 一二〇〇円

(二)  福生駅と五反田駅間の往復電車運賃 一三六〇円

(三)  合計四万三五二〇円

一日分二五六〇円×一七回(通院美日数一七日)

4  休業損害 二〇九万〇二三六円

第一審原告は、関東逓信病院に入院した平成四年一二月一四日から、アイエヌエスを休職し、平成五年一月一二日に退院した後も、医師の指示で自宅静養を続けたが、体調が思わしくなく、同年三月二〇日に同社を退職した(原審原告本人、弁論の全趣旨)。

その間、第一審原告は、失業保険金として支給された合計一〇五万六二七〇円を生活費に充てていたところ、ほかに収入がないため、職を探すことにし、同年六月から、地方公共団体の下水処理場の保守監理等を営む高杉商事に就職したが、仕事内容が厳しい上に体調も悪かったため、同社を同年八月一杯で退職した。なお、第一審原告は、この間、高杉商事から六三万〇三一五円の収入を得た(甲二二、二三の1ないし4、乙一〇、原審原告本人)。

その後、第一審原告は、体調が優れないまま経過したが、平成六年一月一七日、症状固定と診断されるに至った(甲二四、原審原告本人)。

そこで、第一審原告が本件傷害事件による受傷により休業・退職しなければアイエヌエスから得たであろう所得、すなわち第一審原告の同社における本件傷害事件発生時の平成四年度の年収四五六万四二四〇円(甲二一の1ないし13)を基に、給料をもらえなくなった平成五年一月一日から症状固定した平成六年一月一七日までの推定所得四七七万六八二一円(四五六万四二四〇円+四五六万四二四〇円÷三六五×一七=三一四七七万六八二一円)から、その間に得た前記所得合計一六八万六五八五円を控除すると、第一審原告の休業損害は三〇九万〇二三六円となる。

なお、第一審原告が高杉商事に就職した時点で、既に通常の仕事ができる程度まで体調が回復していたことを認めるに足りる証拠はない。

5  逸失利益 二五五六万三七三七円

(一)  第一審原告は、本件傷害事件により、頭部外傷、脳挫傷性出血の傷害を受け(急性期CTで左側頭葉の脳挫傷性出血が認められた。)、関東逓信病院に入院してから約一〇日後にようやく記憶が回復し、平成六年一月一七日、自覚症状として、時に頭痛を感じる程度の神経所見があり、他覚症状及び検査結果として、左側頭葉の陳旧性脳挫傷が分布しており、また、外傷後のてんかん発症予防のため、抗けいれん剤の投与を必要とする症状が固定し、これらの後遺障害内容の増悪・緩解などについて、てんかん発症の可能性は年々減少する見込みであるが、脳挫傷は永久に残存すると診断された(甲二四、原審原告本人)。

(二)  そして、第一審原告は、平成六年一二月六日ころから現在まで、国立精神・神経センター武蔵病院(以下「武蔵病院」という。)に通院しているところ、同病院初診時には、夜中に胸が強く締め付けられ苦しくて目が覚めることが毎日のようにあると訴え、意欲低下、感情鈍麻の状態にあった。右初診翌日に実施された第一審原告の脳波検査によれば、背景活動は著しい徐波化を示し、また、突発活動として、高振幅のデルタ波が前頭極部優位あるいは前頭から中心部優位にしばしば突発する異常脳波であった(甲二七、二八)。

また、武蔵病院において、平成八年一月に実施された第一審原告の脳波検査によれば、背景活動は徐波化を示し、突発活動として、高振幅のデルタ波が前頭極から前頭部優位に時々突発しており、初診翌日の脳波に比べ若干改善しているものの、依然として異常脳波であった(甲二七、二九)。

(三)  武蔵病院において、平成九年六月に実施された第一審原告のMRI検査によれば、左側頭葉の底部及び先端部にFLAIR法による撮像で高信号領域を認め、左側頭葉前部が萎縮し、左側脳室下角の拡大が認められ、この部位は、頭部外傷直後に脳挫傷性出血が認められたという部位と一致しており、脳挫傷後の変化と考えられる(甲二七、三〇の1ないし8)。

平成九年六月の時点において、第一審原告の意欲低下、感情鈍麻の状態は、武蔵病院初診時に比べ、ある程度改善されてきているが、右の脳挫傷後の変化と考えられる所見は、今後も永久に残存するため、第一審原告の意欲低下、感情鈍麻状態が今後どの程度まで回復するかは不明であり、逆に増悪する可能性もないとはいえない(甲二七)。

そして、武蔵病院で初診以来第一審原告の診療を担当してきた同病院精神科医師加藤昌明は、結論として、第一審原告は、頭部外傷、脳挫傷性出血に起因するとみられる意欲低下、感情鈍麻のため、集中の持続、適切な注意の配分などが十分にできず、そのため軽易な労務以外の労務に就くことができないと考えられ、第一審原告の後遺障害は、自賠責保険の後遺障害第七級に相当すると考えられるとしている(甲二七)。

(四)  第一審原告は、平成九年五月から、福生市のひまわり共同作業所において、ビラ折りや部屋掃除を行い、同年六月からは石けん作りの作業に従事し、手間賃として一か月三〇〇〇円ないし五〇〇〇円程度の収入を得ている(甲二七、三一、当審における第一審原告本人)。

(五)  ところで、戸塚脳神経外科院長井上久司(以下「井上医師」という。)の意見書によれば、武蔵病院における平成八年一月実施の脳波所見においては、第一審原告の脳波の改善は著しく、異常はごくわずかであり、また、平成九年六月実施のMRI検査のフィルムによれば、第一審原告の左側頭葉の萎縮及び左側脳室の萎縮はほとんど見られず、あってもごくわずかであり、結論として、第一審原告の後遺症診断としては、自賠責保険の後遺障害第七級に該当するとは到底いえず、ほとんど正常ともいえるとしている(乙一一)。

しかし、井上医師の右意見は、甲二四ないし二九のみを判断の基礎資料としたものである上(乙一一)、井上医師は実際に第一審原告の診療には当たっていないのであるから、右の脳波所見及びMRI所見の点はともかく、その結論にさほど重きを置くことはできない。

(六)  そこで、以上認定説示したところと、第一審原告自身、本件傷害事件発生以前、仕事をする体力・気力はそれほど充実してはいなかった旨供述していること(原審原告本人)などを総合考慮すれば、第一審原告には、本件傷害事件による頭部外傷、脳挫傷性出血に起因する陳旧性脳挫傷ないし脳挫傷後の変化が今後も残存し、このため意欲低下、感情鈍麻の症状が継続するものと認められ、第一審原告のこの後遺障害は、自賠責保険の後遺障害別等級表第九級の「10 神経系統の機能又は精神に障害を残し、服することができる労務が相当な程度に制限されるもの」に該当し、その労働能力喪失率は、三五パーセントと認めるのが相当である。

そうすると、第一審原告の右後遺障害による逸失利益は、第一審原告の本件傷害事件発生時の前記年収四五六万四二四〇円に労働能力喪失率三五パーセントを掛けて得た一五九万七四八四円に、症状固定時の三四歳(甲二四)から稼働可能な六七歳までの三三年のライプニッツ係数16.0025を掛けて得た二五五六万三七三七円となる。

6  慰謝料 七三〇万円

(一)  入通院慰謝料 九〇万円

第一審原告の症状固定時までの前記入院期間(二九日)、通院期間及び通院実日数(一七日)などを考慮すると、第一審原告の入通院慰謝料は、九〇万円と認めるのが相当である。

(二)  後遺障害慰謝料 六四〇万円

第一審原告の前記後遺障害の等級などを考慮すると、第一審原告の後遺障害慰謝料は、六四〇万円と認めるのが相当である。

7  弁護士費用 三四万円

第一審原告は、本件訴訟を原審裁判所に提起するに当たり、法律扶助協会に、第一審原告代理人に対する報酬の立替えを依頼し、その結果、八万円の返還債務を負担し、また、第一審訴訟手続の終了及び五七七七号事件控訴に伴う第一審原告代理人に対する報酬についても、法律扶助協会に立替えを依頼し、その結果、二六万円の返還債務を負担している(甲三二、三三、弁論の全趣旨)。

以上の第一審原告の損害は、合計三六六一万〇二二八円となるから、このうち第一審被告らが民法七〇九条及び七一五条に基づき、連帯して第一審原告に支払うべき損害賠償金は、右損害に第一審被告甲野の前記過失割合一五パーセントを掛けた五四九万一五三四円となる。

五  結論

以上の次第で、第一審原告の請求は、第一審被告らに対し、各自、五四九万一五三四円及びこれに対する不法行為の日である平成四年一二月一四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容すべきであり、その余(当審における拡張部分を含め)は理由がないから棄却すべきところ、第一審原告の控訴及び当審における請求の拡張に基づき、原判決を右のとおり変更し、第一審被告らの控訴はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六七条二項、六四条、六五条を、仮執行の宣言につき同法二五九条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官塩崎勤 裁判官橋本和夫 裁判官川勝隆之)

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